輝クロニクル第2期展 -赤から黒への挑戦-
2024年10月26日(土)~12月22日(日) 期間中の土日のみ開館
10:00~16:00
入館料:300円(中学生以下無料)
輝クロニクルとは
池田輝の作品を記録し,読み解き、年代記(クロニクル)としてまとめました。
輝の画業50年を紐解くと3つのステージに分けられます
第1期 初期から春陽会準会員となるまで( ~1971年39歳)
第2期 春陽会準会員後から教員を退職するまで(1972年40歳~1984年53歳)
第3期 教員退職後から画業を閉じるまで(1985年54歳~2005年74歳)
今回の展示は第2期です。第1期展では春陽会準会員推挙までを展示しました。
第2期展は準会員となった39歳から3年後42歳で会員となり、51歳で春陽会記念展賞を受賞し、53歳で教職を退くまでの13年間を紹介いたします。
「いったん会員となったらはずされることはないのだが、だからこそ素晴らしい絵を描かなくてはならない」と、また、出展が近づくと徹夜を続ける自分を「毎年受験生のようだ」と語っていました。輝独特の赤が表現され、作家の画風として定着したのはこの時期です。しかしその後自らの作風を破り、油絵では難しいとされる黒を中心色とした作品に挑戦しました。絵と戦い挑戦し続けた躍動の13年間です。雑誌表紙を飾り、賞を受賞するなど代表作が多いのもこの期間です。作家の挑戦を語る代表作のいくつかは他館所蔵ゆえギャラリー輝での展示はかないませんが、紙面やWEBでは画像で紹介いたします。二階小ホールにて第2期13年間の小品を展示しています。
小品は制作年を記録していない作品が多々あり、状況からこの時期の作品と推測されるものが含まれますことをご了承ください。
第2期 キーワードは 『挑戦』
作家の画風が定着した後、
わざわざ作風を破る挑戦 赤から黒へ
【自由に描いてきた第1期を経て,2期では春陽会会員を目指し、そして作風の定着へ、さらには定着の破壊へと向かう】
美術の時間に中学生たちに、「おいの好きな色はなんだ?」と問い、「俺は赤が好きだ」と言っていたそうです。自由に描くことができなかった若き頃を経て,手当たり次第あらゆる表現に気持ちをぶつけるようにして制作していた頃から好んで赤を使っていました。
39歳で春陽会準会員になった後、会員を目指しF200号の「曲馬」を制作します。スケールで心意気を示すつもりだったのでしょうか。その後、初期から「ピエロ」を通じた人間の哀感を表現しつつも、その後躍動する人物像ではなく,正面を見据えどっしりと構える人物シリーズへと変遷しました。
作家は「誰がみてもその人の作品とわかるようにならなければならないんだ」と言っていた通り、42歳で「一人」、「二人」(上田女子短期大学所蔵)等を制作し春陽会会員に推挙されました。翌年43歳で「三人」(画集表紙・おぶせミュージアム中島千波館所蔵)を制作。
これらにより、フレンチバーミリオンやカーマインレッドの輝独特の赤によるどっしりとした人物シリーズが完成したと思われます。(完成かどうかは本人に確認できないので断定できない)
せっかく作風が定着したその後、定着を破るといい黒に挑戦しました。
F200号の「出立」(菅平小中学校所蔵)がそれです。続いて翌年48歳で同じくF200号で黒を基調とした「馬上の人」を制作しました。
50歳になるというのに挑戦するのはたいしたものだと仲間は賞賛しましたが、輝は賞賛を目的として作風を破ったのではありません。春陽会会員となった時(42歳)はこれからが大変だと自分に追い打ちをかけ、作風が定着した後はわざわざ次のステージへと作風を破りました。
調度「出立」を制作していた頃のことです。私は不用意にも「好きなことが仕事にできて幸せだね」と言ってしまいました。その時はいつになく饒舌に、「何言うだか。好きなことだからこそ大変なんだ」と苦しい胸の内を吐露した夜がありました。それは進路選択に今ひとつ身が入らない私への叱咤でもあったのでしょう。
挑戦をやめない作家が描く人物の目は鋭い。作品と正対するとあの夜のことが思い返され、「おいはそれでいいだか」と常に心をのぞき込んでくるようです。
いつもこの作品をまっすぐ見返すことのできる自分でありたいと思わせます。
安定に留まるのではなく次へ次へと挑戦し続けた躍動の13年間。
丸子北中学校美術研究室にて
1980年 48歳
春陽展に毎年数点出展する。この年は自宅アトリでF200の「馬上の人」を制作し,学校で多数点を制作していた。
合間に豆を挽いてコーヒーをたてると、学校中コーヒーの香りが漂ったという。
13年間の制作を3つのステージに分け、記録があるものを紹介いたします。
出展こぼれ話
展覧会に絵を出展するのはひと苦労である。額装し運ぶ。業者に依頼すれば苦はないが,貧乏絵描きはその費用を捻出できないから四苦八苦である。
ある年は知人を頼ることにした。
その知人とは,その当時家を増築し新しくアトリエ建築を頼んでいた親戚の大工さんだった。
ここからはその大工さんの思い出話しによる。
「トラックに積んで輝さんと東京へ向かった。途中大屋の丸山恒雄さん宅に寄り、「蟹」の絵を積んだ。丸山さんはひたすら蟹を描く。蟹が動き出してくるくらいまで描くんだと言っていると輝さんに教えられた。都内を走るのは大変なので一旦川越の兄の家に寄り、そこから兄の運転で上野を目指すことにした。兄の家で輝さんは,兄の子供のスケッチを描いた。今あの絵はどうなっているかな。兄は運輸会社で運転手していたから運転は得意だった。会場となっている東京都美術館に着くと、他にも絵を搬入しに来ている人がいた。みんな変な格好の人だった。東京だというのに背広着た人はいない。ネクタイしていても首にかけているだけ。髪は輝さんみたいにざんばらの長髪。まともな格好の人は警備員だけだった。さすが芸術家だと思った。帰りのトラックの中では,ナオンドさん(輝叔父の中村直人)の話を輝さんからずっと聞いた。」
この時搬入した作品は「三人」(おぶせミュージアム中島千波館所蔵)。渾身の作である。自分で一緒に搬入までやりたかったのかもしれない。