父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記 30 最終日 パリを発つ
1985年10月10日(木)晴れ
今日でヨーロッパともさらばだ。
朝起きて帰宅の準備に大わらわだ。
宿を10時に立つ。ホテルの前で記念写真を撮った。(ここには)二度と来ることはないだろうと思った。

電車で空港へ行く。空港には11時30分に着いたが、途中道に迷って苦労した。
空港には日本人ツアー旅行の人達がたくさんいて、もう日本に着いた気分になる。
免税の洋酒を何本か買い込んだ。
帰路はアンカレッジ、ソウル、成田経由で往路と同じく大韓航空機だった。
アンカレッジは夜10時だというのに真昼間だ。しかし太陽のない世界で幻想的だった。またアラスカの北極雪原の上を通過したときは不気味さに襲われた。

成田には夜の八時半に到着した荷物のさばき(受け取り、チェック)に時間がかかった。
高瀬君が車で迎えに来てくれていた。
空港を後にしたのは9時半近かった。
麻美の下宿近くの食堂に立ち寄って夕食を取った。日本酒、寿司が大変美味しかった。
部屋に入ったとき、12時近かった。
無事帰れてホッとした。
【追記】
地下鉄を降り空港行きのバスに乗る際に、地下鉄出口を間違えたためかなり歩くことになった。
そういえば地下鉄を降りたとき、ホームで黒人が何か大声で叫んでいた。
地図を見ながら夢中で歩いていたので、聞き取れなかった。
地上に出るとビルの建ち並ぶ交差点に出た。空港行きのバスは見当たらない。
さっきホームであの人は「空港行くならこっちだ!」と叫んでいたと気づいた。
アンカレッジでトランジットした。
待ち時間暇なので外を眺めに屋上に出た。凍えるような寒さの中、先客が一人だけいた。
フェンスに手をかけこちらをチラチラ見ていた。
山城新伍さんだった。
「おい、女子大生」って声かけたそうだった(と思う)。
こちらから挨拶すれば良かったけど一般人に声かけられても迷惑かと思い、寒くて長居はできずロビーに引き返した。
日本に戻ってきて程なくして私は病気になり、緊急手術することになった。
序盤にスイスで体調崩したのは病気が起因していたと思う。
よく何もなく帰国できたと、悪運の強さに我ながら感心した。
父をはじめ家族も周囲の皆にも同様に言われた。
埼玉の病院に入院中、父が電車を乗り継いで見舞いに来た。
その帰路、テロ騒ぎで電車が止まり、混乱する在来線を乗り継ぎ1日かけて上田に戻ったそうだ。
父曰く、「ヨーロッパ行った後で慣れているから、何でもなかった。平気だった」
こうして”無事に帰れて”が締めの言葉になるほど、スリリングな二人旅でした。
旅の道中、そして帰国後にもスケッチブックに克明に残していた父の旅行記をこうして読み解き、リライトしながらついにようやく行程最終日を迎えました。
このブログのほとんどはギャラリー輝滞在中にアップしています。
記事に登場する父の絵、実物を観ながらの作業です。
日記を読み解き、当時の父の気持ちを知り、「もっとこうすればよかった」と反省と後悔の日々です。
ギャラリー輝に訪れる父の友人、知人にそんな話をすると、
「お父さん、旅をとても喜んでいたよ」
と励まされます。
日記の最終日が近づくにつれ、名残惜しさでゆっくり歩を進めてきました。
第30話 最終日の記録をアップする前に、ブログ「バネの風」の引っ越し作業があり、さらに7月26日から始まる「輝クロニクル第3期 第二章展」の準備に追われ、最終日ブログのアップが大変遅くなってしまいました。
ようやく完成しました。
父は帰国後、アルバム持参で旅の土産話を方々で披露したそうです。
「いい旅したね」
という人がいたり、
「うわー、そんな旅したくない」
という人に分かれたそうです。
帰国後、地名や建物の正確なスペルを確認されました。作品タイトルの為でもあり、こうして日記を残す為でもあったのでしょう。
父はこの後友人と何度となく海外スケッチ旅行に出かけています。
さすがに星の無いホテル泊ではなく、父曰く「豪華なホテル」で現地ガイドが付いたりタクシー移動ありの「贅沢な旅」だったそうです。
もっと描きたいと言ったスペインを訪れ、アルルにも再訪していました。
ギャラリー輝では、今後「父と娘のヨーロッパ貧乏スケッチ旅行記展」を開催できればいいな、と思っています。
日程は今のところ未定です。
スケッチ画が多いので額装の準備、作品と旅行記を合わせて鑑賞していただけるようにする展示方法など、どのようにすべきか思案中です。
2026年には企画展開きたいと思っています。
その際は、皆様、是非ギャラリー輝にお越しいだければ、嬉しいです。少し恥ずかしいですが。
